公開対局はプロ棋士の芸術を破壊する

数多いボードゲームの中で、囲碁、将棋、チェスは他のゲームと異なり、極めて芸術性の高い性格を持っています。
マチュアならば運用形態は、どうでも構いませんが、プロ棋士の場合には最善の対局環境が必要です。
ここで大問題となるのが、プロ棋戦の運営資金、賞金などを如何にして確保するかと言う事です。

野球、サッカーのような標準的なスポーツならば、観客の入場料、テレビ中継料、広告料など様々な形態が有りますが、中核は観戦料金です。
選手に極めて近い場所に観客が存在して、応援または野次、更には、音楽、鳴り物などの手段で選手を鼓舞する事が、スポーツの醍醐味でもあります。

一方で、観客が存在しても静寂が要求されるものとして、芸術である演劇、映画鑑賞、クラシック音楽演奏会などがあります。
一部での拍手などを除いて、演劇や演奏の進行中には、観客は静寂を保つのが絶対のマナーであり、騒音は甚大な妨害行為となります。

しかし、観客の静寂義務の相異を除いて、スポーツでも芸術でも観客入場料金を主要な運営資金とする事は重要な共通点です。
また、野球、サッカーのように巨大な、すり鉢状の会場を設ける事で、大勢の観客にゲームの進行状況を明白に提示する事が出来ます。

以上の点を踏まえて、私が問題としたいのは、囲碁、将棋、チェスを公開対局で運用する事の是非です。

対局者の近辺に観客の存在を許す公開対局という運営方法は、一般のスポーツと同様に観戦料金を主要な資金源としたいという思考でしょうが、そもそもボードゲームの競技盤は観客から全く見えず、大型スクリーンに表示しなければ進行状況は全く分からないという大きな矛盾があります。

ゲームの進行状況をリアルタイムで観戦出来さえすれば、対局者の近辺に観客が存在する必要は全く有りません!!
ならば、対局者は観客がいない個室で対局して、盤面のみ大型スクリーンに表示した大型会場で観客が進行状況を観戦すれば良いのです。
更に、専門家がマイクで進行状況を詳細に解説する事も可能になります。アマチュアの技能向上の為の情報を提供する重要な機会となります。
ここで、囲碁、将棋の場合とチェスの場合で、運営資金の獲得方法には重大な相異が有る事を考慮しなければなりません。
 
囲碁、将棋の場合は、日本の巨大新聞社が戦後の新聞拡販手段の一部として、棋譜日本棋院日本将棋連盟から高額で買い取り、固定的、永続的な唯一のスポンサーとなる事で、囲碁界、将棋界のプロ運営が維持されて来たという現実があります。
勝負師であると同時に芸術家でもある囲碁、将棋のプロ棋士が、名局、名勝負を創造出来たのも、非公開対局を可能とする新聞社の巨大資金の御蔭でした。

ところが、チェスの場合には、そのような永続的巨大スポンサーが無く、観戦料金を主要な運営資金とするしか他に方策がありません。
高名なチェスプレイヤーは数世紀前から存在しますが、キャパブランカは外交官、エイベは数学者というように、立派な職業を持つインテリ達でした。
生活可能な巨額の賞金が提供される訳では無く、一流の棋力を持っていても、あくまで本職とは別の余技としてチェスを指していた訳です。
近代になって次第に数少ないスポンサーの御蔭で、チェスだけで生計を立てる事が可能な真のプロも出現して来ましたが、極めて少人数です。
つまり、野球、サッカーのような莫大な観戦料金が確保出来る訳では無くとも、公開対局で運営するしか無いのが現実です。

囲碁、将棋の良心的な理解者、ファンは、プロの囲碁、将棋を非公開対局で運営する事を充分に理解していますが、そのような慣習がチェス界には有りません。
非公開対局でチェスを運営しようとすれば運営資金が枯渇しますし、何よりもチェスファンの暴動、騒乱(?)が起きるかも知れません。(笑)

ここで思い出して頂きたいのは1972年のスパスキー対フィッシャーの世界チェス選手権です。
第2局でのテレビ中継カメラを発端としたトラブルが原因で、フィッシャーが個室対局を要求した為に、第3局から非公開対局でゲームが進行しました。
フィッシャーのようなカリスマ性の強い人物だったからこそ要求が受理された訳であり、チェス界の習慣から見て到底受理し難いものだったでしょう。

しかし、フィッシャーの要求に同意したスパスキーも実に立派だと思います。国家権力から強烈に支配されていたスパスキーの勇気には心から敬服します。
やる気を出したフィッシャーは能力を最大限発揮して、公開対局に戻した後も勝ちまくりタイトル獲得出来たのは周知の通りです。
チェス界では極めて稀な出来事でしたが、観客の存在を負担と感じるのは、超一流棋士に共通した心理だと思います。

勝敗を競うという点でスポーツ的側面を有しており、リアルタイムでゲームの進行状況を把握したいという大衆の要望は充分に理解出来ます。
しかし、ボードゲームの場合、対局者にとっては観客の存在そのものが重大な妨害行為です。これは、いくら強調しても強調し過ぎる事はありません!!

いくら観客に静寂を要求しても必ず発生する咳払い、どよめき等は重大なマナー違反であり、対局者の思考に対する甚大な妨害行為となります。
おそらく対局者の直近に居たいという観客の願望は、対局者の表情を見たいという極めて自分勝手な野次馬根性に起因するものでしょう。
画家、作曲家、作家などの創作現場に侵入して、作品の作成状況を覗き見したいという、下品な好奇心と同じ欲情とさえ言えます。

更に、公開対局には、もう一つの重大な問題があります。対局者の利益よりも観衆の利益を優先させる事になるからです。
その結果、持ち時間の短縮化が進む一方となります。観客の忍耐許容限界として、せいぜい4~5時間でゲームを終了させる必要があるからです。
一手当たり30分、1時間のような長考は許されず、「早く指せ」という野次が飛ぶ事を回避する負担を対局者に要求します。
最近のチェス界では単なる早指しの「RAPID CHESS」では飽き足らず、「BRITZ」(電撃チェス)という超早指しが脚光を浴びる始末です。
麻雀以上の猛烈なスピードで、僅か1~2分でゲーム終了です。こんなものに一体何の意味があるのでしょうか。芸術の堕落であり、嘆かわしい限りです。
「スリルが味わえる」などと言うふざけた賞賛があるようですが、レイティング上位者が悪手を指して敗退するのを嘲笑するような光景は極めて愚劣です。

最適な持ち時間を、どうすべきかは簡単に結論が出るものでは有りませんが、少なくとも早指しでは名局、絶妙手は生まれません。
カスパロフ自画自賛している、1999年のウェイカンゼーでの対トパロフ戦、「盤上の奇術師」と絶賛されたミハイル・タルの多くのサクリファイス等は高度な芸術作品として賞賛されるべきものです。「フィッシャーは偉大な芸術家であった」という賞賛を否定する人はいないでしょう。

ここでプロスポーツの定義を考えてみると、「①勝敗を争う。」、「②観客の入場料、観戦料を主要運営資金とする。」という2要素に集約されるでしょう。
その意味では、囲碁、将棋はスポーツではなく芸術であり、チェスは明確にスポーツであるという事になります。

しかし、インターネットの普及した現代においては、巨大新聞社でも販売部数の減少に苦しみ、高額の運営資金を提供する事が大きな負担になっています。
対局者近傍で観戦したいという大衆の欲望に抗し切れずに、迎合するような形で、公開対局を大前提として新たにスポンサーとなるという新興企業の提案を
日本棋院日本将棋連盟は受け入れるしか無い状況に追い込まれています。
多くの芸術運営組織、スポーツ運営組織に共通していますが、運営幹部には営業ノウハウ等のスキルが極めて希薄であり、運営資金確保が困難になっても、対応に右往左往するのが現実です。もともと、日本棋院日本将棋連盟は巨大新聞社に全面的依存して、営業努力、政治的ロビー活動をして来ませんでした。

その為、囲碁、将棋を職業として生活する事は、益々困難になっています。一部の超一流棋士を除いて殆どの棋士の収入は、一般サラリーマンよりも少なく、アマチュア指導等の副業が必須となる傾向が強まっています。このままでは、将来の希望、夢を持ってプロ棋士を目指す若者は皆無になるでしょう。
その点、チェス界の場合は、何もチェス賞金だけで生活する義務は無く、立派な本職を持った上で、あくまで余技としてチェスに参加すれば良いのですから、極端な話、チェスのプロ棋士がゼロになっても何の問題もありません。

要するに、現代の囲碁、将棋、チェスは、芸術性を放棄して、勝ちさえすれば中身はどうでも良いという傾向が増大する一方です。
理想を言えば、かつての共産圏のステートアマのように、国家が秀逸な芸術家、スポーツ選手に対する生活保障、高額賞金などを提供するべきです。
かつて、国家的戦略兵器として、ソ連人同士でチャンピオンを独占していた時代の善悪は別として、チェス棋士の生活は保障されていた訳です。
しかし、日本は文化的行政が極めて貧困な国家ですから、囲碁、将棋のプロ棋士に対する援助など実現するはずも有りません。

最後に強調しておきます。「見せろ見せろ」という愚かな大衆の欲求が囲碁、将棋、チェスの芸術性を破壊するのです。