カールセンの言動から見えるチェス界の特異性

日本チェス界の技量向上が絶望的である事は、これまでにも述べて来ましたが、今回は昨年9月のカールセン連勝記録ストップを取り上げたいと思います。同時に、世界から全く相手にされない日本チェス界の今後について所見を述べたいと思います。

シンクフィールド・カップで、カールセンがニーマンに敗れて不正を主張した訳ですが、実に見苦しいと思います。不正証拠も無いのに一方的に相手を非難する態度は、トランプ(米国元大統領)と同類であり、傲慢の誹りを免れません。
カールセンに対しては、風貌からして「生意気な悪ガキ」と言う印象を持っていましたが、予想通りに馬脚を現わしたと言うべきです。

「緊張感が無く完全集中していないのに、一握りのプレイヤーしか出来ないような方法で負かされた」という主張に説得力は有りません。白番で一方的に敗れた事で、プライドが傷つけられて理性を失ったのかも知れませんが、ポーンの駒損を挽回出来ず、徒に投了場面を延期させた無様な敗戦でした。レイティングが2900近くという常識外の状況が続いて来た事も、他の一流選手を侮辱する傲慢な姿勢に陥った原因だと思います。

余談ですが、ニーマンが黒番でカールセンに勝利した今回の対局を見て思い出したのが、カルポフ対カスパロフの世界戦です。1985年の第16局と第24局において、共に黒番でカスパロフが勝利した棋譜は実に素晴らしいと思っています。

さて、ネット普及の現代では、確かにオンライン対局での不正防止は不可能です。また、AIチェスの進歩も、一流チェス選手を混乱させているのかも知れません。カールセンがAIチェスと公開対局しないのも、レイティングが3000以上のAIチェスに勝てる可能性は全く無いので、プライドが許さないのでしょう。

カスパロフIBMのAIチェスと果敢に対局して敗れましたが、その姿勢は高く評価出来ます。また2000年のクラムニクとの世界戦で敗北しましたが、次世代への交代時期だったと素直に認めたのも好感が持てます。それだけにカールセンの往生際の悪さが際立ちますね。

カールセンは、ニーマンが異常な進歩を見せていたと疑念を持ったそうですが、AIチェスを使用して脅威的技量向上していたのだとしたら、自身もAIチェスによる技量向上に努めるべきであり、何とも度量が狭いですね。次世代の成長を祝福出来ず、永久に第一人者でないと気が済まないのでしょう。

不正行為だけでニーマンが技量向上して来たのならば、何れニーマンも馬脚を現わすでしょうし、堂々と返り討ちにして自分の技量を証明すべきです。ナイジェル・ショートが、「不正証拠が無いので、不正行為があったとの主張には懐疑的だ」と述べたのは当然だと思います。

このようなチェス界の騒動は、以前から勃発していますが、日本人には理解し難い外国人独特の気質も有ると思いますので、個人的感想を述べます。
権力者、組織に対しては極めて従順なのが日本人の特質であり、日本棋院日本将棋連盟にも問題だらけですが、基本的にトップ棋士が組織に反旗を翻す大騒動は先ず有り得ません。

しかし、外国人はトップ選手が管理組織に意見を主張する事は、日常茶飯事であり、唯々諾々と従う事は有りません。ただ、チェスが他のスポーツと大きく異なるのは、僅か1名でも管理組織全体を揺るがす大騒動になる事があり、陸上競技、野球、サッカー等では起こり得ません。それだけ、チェス管理組織の立場がトップ選手よりも弱く、特に世界戦などの興業収入に依存しているからかも知れません。
最終的に失敗しましたが、カスパロフがFIDEに反旗を翻してPCAを設立した事件も、チェス界の特異体質を象徴していると思います。

先ず、1975年の世界戦でのフィッシャーの対戦拒否事件を例に上げます。確かにフィッシャーはチェス史上に残る超一流棋士ですが、カルポフに勝てる自信が全く無かった為に、対戦拒否した事は明白だと思います。対局数など次々とクレームを入れたのは口実でしかありません。状況は異なりますが、カールセンの敗北後の発言も、フィッシャーのクレームも本質的には同類だと思います。

次にグランドマスター(以下GMと略記)の人数が異常に増加しているのも、チェス管理組織の虚弱体質を象徴していると思います。
現在は世界に1000人以上のGMが存在すると知って呆れてしまいました。以前にナイジェル・ショートがGMの急激な増加を批判したのも当然です。チェスのオープニングを意味も理解せず丸暗記するだけのGMが増えているそうで、GMの権威も地に落ちたとしか言えません。

GM認定基準の一つにレイティング2500以上と言うのがあるそうですが、インフレ状況にあるレイティング制度を考慮すれば、あまりにも低過ぎると思います。GM認定基準を緩慢にして、チェス界の発展を目論んでいるのでしょうが、ゲームの品質を落とすのでは本末転倒です。

2800を超えるカールセンは別格としても、超一流とされる2700を基準にGM認定を考えるべきでしょう。最も単純なGM認定基準は世界100位以内に入る事でしょうが、第100位でも2650前後のレイティングであり、GMを100人程度にするのが最も妥当です。男子100メートル競走で10秒以下で走れない選手は、とても一流選手とは言えないのと全く同じです。

さて日本チェス選手についてですが、日本人トップでさえ僅か(!)2400前後と言う有様では、世界から全く相手にされないのも当然です。僅か4回対局して2ポイント差がつくのがレイティング差200ですから、超一流の2700とは300も差異がある訳で、絶望的としか言えません。

そもそも日本チェス界の本質が「厨二病」にある事は、多くの日本チェス界自身の良識ある方々が明言しています。「俺はチェスを知っている、恰好良いだろう」と言うのは、程度の差こそあれ日本チェス界に共通しています。
ロシア語を修得して、ロシアのチェス選手養成機関に飛び込む覚悟なんか、日本チェス界には全く有りませんん。日本人だけで同好会、趣味、道楽のようにしかチェスに関与出来ない状況では、日本人のGMが誕生する事は永遠に無いでしょう。

 

 

日本チェス界の絶望的な排外性

囲碁、将棋だけでなくチェスも愛好する、数少ない日本人であると自負している70歳の老人です。チェスは崇高な芸術であると考えている私は、日本チェス界には主要な問題が二つ有ると考えています。
最大の問題はチェス技量向上に全く関心が無い事、2番目は特に将棋界に対して凄まじい憎悪の感情を持っている事です。

欧米文化に憧れるのは仕方無いとしても、マイナー文化として放置せずに、世界一流を目指すのが当然の目標であるべきです。
例えば、フェンシングは剣道と比較しても競技人口は極めて微々たるものですが、オリンピックでメダルを取れるほどの努力を続けています。
ましてや、ボードゲームは完全に頭脳のみの世界であり、知的水準が極めて高い日本人にとっては、最も得意分野である筈です。
どんなスポーツ団体でも芸術組織でも学術分野でも、レベル向上が最大の目標であり、一流と呼ばれる日本の団体、個人は数多く存在します。

ところが日本チェス界に目を転じると、日本にチェスが伝播されて数十年が経過していますが、FIDEの国別レイティングでも明白な様に、世界第100位前後という惨憺たる有様です。日本よりも遥かに遅れた経済後進国にも負け続けている現実を、日本チェス界の方々は、どのように弁明するのでしょうか?
チェス強豪国への留学、高度な指南書の普及などを拒否して、数少ない愛好者間でのみ競技しても、技量向上する筈が有りません。

しかし、技量向上しない最大の原因は、将棋界に対する凄まじい憎悪の感情であると思います。東公平有田謙二の著作、言動を分析すると、チェスに対する情熱は皆無であり、将棋界への罵詈雑言が目的化していると感じます。
2009年4月の将棋名人戦における東公平の侮辱行為が象徴的ですが、こんな行為をする限り、日本チェス界に未来は有りません。

そもそも、囲碁、将棋の愛好者は、殆どチェスに無関心であり、チェスの基本的ルール、運営方法、日本チェス界の技量レベルさえ全く知りません。
欧米文化を知らず日本文化しか知らない日本人に対して優越感を持つ事だけで、日本チェス界は満足しているとしか思えません。
趣味、道楽以下のレベルであっても、先進的な欧米文化を理解していると自画自賛しているのでしょう。

50年以上も昔の話ですが、カルポフ対コルチノイの世界戦での、コルチノイに対するソ連当局の陰湿な妨害工作は、あまりにも有名です。当時、日本チェス協会幹部(故人)に電話で問い合わせた事がありますが、まるでソ連当局者のようにコルチノイを非難するのを聞いて、背筋が寒くなりました。
また、14年ほど前ですが、ある将棋ブログの中で、チェスの運営方法について疑問を呈したところ、「KERES65」という日本チェス界の有名人から「日本チェス界と将棋界の相互理解は不要である」と一蹴されて、唖然としました。

悪名高いJCAについては論評も不要ですが、日本チェス界の状況を知れば知るほど、日本チェス界の技量向上は絶望的であると感じています。

 

日本チェス界の病巣

身体的能力の優劣が勝敗に影響する大多数のスポーツと異なり、ボードゲームの場合は頭脳だけで勝敗が決する為、知的水準が高いと言われる日本人には極めて有利であると思われます。
日本人のボクシング世界ヘビー級チャンピオンなんて有り得ませんが、知的ゲームならば日本人は充分に活躍出来る筈です。
将棋は実質的に日本だけの範囲内ですが、囲碁だけでなくオセロも日本人のレベルは世界的に極めて高いレベルです。

しかし、チェス界に目を向けると、FIDEのレイティングリストを見るまでも無く、日本人のレベルは惨憺たる有様です。
経済先進国の範囲だけでなく、日本より遥かに遅れた経済後進国と比較しても、圧倒的に低レベルであるのが現実です。
日本にチェスが伝播されて何十年も経過しているにも関わらず、グランドマスターが誕生する気配は全く有りません。
長年、日本チェス界の動向を注視して来ましたが、もはや日本チェス界にはレベル向上の意思が皆無なのだと断言出来ます。

単なる趣味として楽しむのは個人の自由であり、野球、サッカーのようなスポーツでも、囲碁、将棋のようなゲームでも、圧倒的多数はアマチュアであり、プロを目指す人材は極めて少数です。しかし、極めて少数の有能な人材を超一流にすべく、様々な指導体系が存在するのは全ての業界に共通しています。
ところが、日本チェス界の過去、現状を振り返ると、優れたチェス指南書を出版したり、ロシアのチェス養成期間への留学等を推し進める施策は全く見受けられず、単なる道楽レベルでしか無い状況が延々と継続して来たと言わざるを得ません。

東西冷戦時代は旧ソ連を中心とした共産圏が、政治的戦略兵器とする国家的支援により圧倒的地位を誇示していました。
チェスに対する関心がアメリカでは薄かった時代に、英語のチェス指南書が存在しなかった為、フィッシャーがロシア語を独学で勉強してチェス技量の向上に努力したのは有名な話です。そんな人材を日本人に求めても無理ですよね。
現在では英語のチェス指南書は多数存在しますが、日本チェス界にはロシア語どころか英語さえ読める人材は殆どいないでしょう。
たとえ英語ならば読解出来ても、高度な解説内容を噛み砕いて日本人向けに平易な解説書を出版出来る人材など皆無です。

ボトビニクが構築した旧ソ連のチェス選手養成機関、多くの高度な指南書などは更に進歩を遂げて、世界中の誰でも恩恵を受ける事が出来る筈ですが、日本チェス界には積極的な活動は見当たりません。
そもそもFIDEに承認された日本の唯一の組織であると豪語する「日本チェス協会」の醜聞については披瀝する必要も無いでしょう。
こんな団体が日本チェス界を牛耳っている(?)のならば、真面目な日本人が居ても迷惑千万であり気の毒としか言えません。

日本国内でチェス出版物が極めて少ない中で、東公平有田謙二の著作も読んでも、チェスに対する情熱は全く感じられません。
更に始末の悪い事に彼等の言動の中で一貫しているのは、将棋界に対する罵詈雑言です。これは凄まじい限りで呆れ返ります。
恐らく、いつまで経っても一流選手を輩出出来ず、世界から馬鹿にされ続けている状況に対する腹いせとしか思えませんが、日本人でありながら日本文化を非難し続ける彼らの言動には辟易するしか有りません。
要するに最も大切な日本チェス界レベルの向上に全く関心が無い彼等は、将棋界の侮辱、破壊しか生き甲斐が無いのです。

象徴的な事件が、2009年4月の将棋名人戦第1局において、対局中の羽生善治に対して、観戦記者東公平がサインを求めた前代未聞の醜聞事件です。NHKの朝のニュースでも大々的に報道されました。将棋界からの非難は当然でしたが、本質を把握した
分析は皆無でした。将棋観戦記者である東公平、即ち、将棋界の人間が将棋を侮辱したという観点の非難のみだったからです。
当時の東公平は完全にチェス界の人間であり、公開対局絶対のチェス界の常識で、非公開対局絶対の将棋界を侮辱したと言うのが事件の本質だからです。チェスを全く知らない将棋界の非難を受けても、東公平から全く反省の言葉は有りませんでした。
何よりも当時の日本チェス界の息を殺した沈黙が象徴的でした。「何を大騒ぎしているのか?何も悪い事はしていない」と言うのが日本チェス界共通の本音だったでしょう。

日本チェス界にとって更に不利な条件は、昔のチェスと異なり短時間のチェス、つまりRAPID CHESS、BRITZが重要な地位を占める事です。しかし、国際化した囲碁界で日本人が外国人(中国、韓国)に敵わなくなってしまったように、日本人は短時間の勝負が苦手です。世界の超一流選手は、通常のチェスだけでなく短時間のチェスでもレイティングは極めて高いです。

所詮、日本人のチェス愛好は娯楽、道楽、暇潰しの領域を超える事は無いのは明白です。

 

文化、慣習の相異の克服は不可能である

日本文化である囲碁、将棋と外国文化であるチェスとの間には、克服し難い価値観の相異があると、極めて悲観的に考えております。
ゲームの基本的ルールについては問題無く納得出来ても、運営方法に関する様々な習慣、規則などについては、日本人と外国人との間では、絶対に受け入れられない項目が数多く存在します。自分で列記してみると、あまりにも多くの相異が存在する事に驚きました。

先ず最初は、音に関する問題です。
碁石、将棋の駒を盤上に打ち付ける際に音が発生する事は、特に気合いの入った局面では、プロ、アマに関係無く自然な光景です。
ところが、チェスでは駒を移動する際に音を発生させる事は厳禁とされています。もっともチェスの駒の構造上、音の発生は不可能に近いですが。
相手に不快感を与えると考えるか、気合いが乗っている相手に対して自分の気持ちを引き締めると考えるか、の相異でしょうね。

更には、日本人ならば、扇子という小道具を持ってバチバチと音を立てたり、独言を吐くのも、プロ、アマに関係無く自然な光景です。これも、外国人は相手に不快感を与えると考えるのでしょう。

2番目の大問題が、碁石、駒の触り方です。
碁石、将棋の駒の触り方には、人差指と中指で上下に挟んで持つという厳格なマナーがあります。これもプロ、アマに関係無く共通です。
周囲全体を抱えて掴む、いわゆる「糞掴み」は最も下品な行為として忌み嫌われる恥ずべき所作です。

ところが、チェスの駒の構造上、駒の上半部分を掴むしか方法がありません。外国人は「糞掴み」という言葉を知らないでしょうが、日本人がチェスを嫌う最大の理由と思われます。
外国人に囲碁、将棋を教える場合、外国人は当然のように碁石、将棋の駒を「糞掴み」します。勿論、外国人に悪意はありませんが、そんな光景を見ると、海外に囲碁、将棋を普及させない方が良いと考えるのは、私だけではないでしょう。

一方で、チェス規則の方が優れていると思われる唯一のものが、「タッチアンドムーブ」です。チェスの駒は立体的に隆起していますから細心の注意が必要ですが、最初に手が触れた駒を動かさなければならないというもので、これだけは「日本人」の私として大変感心しました。

囲碁、将棋では碁石、駒から手が離れた時点で着手完了となる為、あれこれ異なる駒に触った挙句、着手を諦め再思考するというような、御世辞にも褒められない行為が常態化しています。更に、着手した石、駒の近辺をチョコチョコ触る行為も多いですよね。
激しく殴打された石、駒により周辺の乱れた石、駒を直すという善意からの行為ではありますが、正当化する理由は見当たりません。超一流のプロ棋戦でも見られますが、明確に規則で厳禁とすべきでしょう。一度触れた駒を絶対に最終着手として、周囲の駒には一切触れてはならないという「タッチアンドムーブ」は日本人の美意識と矛盾しないと思うのですが、曖昧なままです。

3番目が離席という超大問題です。
早指しならば離席する事はありませんが、持時間が長い囲碁、将棋の対局では離席は頻繁に発生します。明確な離席禁止という制約も無く、相手側の席に移動して立ったまま眺めながら思考する光景も珍しくありません。外国人は絶対に受け入れないでしょう。
しかし、囲碁、将棋を長時間の思考を必要とする芸術創作活動と考えれば、離席を繰り返すのは当然の行動結果と言えます。
一方、単なる勝敗を競うスポーツと考えれば、不正行為を疑われる離席という行為を慎むのも当然と言えます。
この不正行為の存在有無については、性善説で解釈する日本人と性悪説で解釈する外国人との間で発生する、考え方の相異と言えます。

4番目は持時間の長さの相異です。
これは公開対局、非公開対局という運営方法の相異と密接な関係があります。観客が対局者の直近で観戦する事を最優先するチェス界では、持時間の短縮化が進む一方です。ゲームの進行に伴って持時間を増加させるフィッシャーモードは完全に過去のものとなりました。
しかし、囲碁、将棋の場合は、プロ棋士に優れた作品を創作して貰う為、充分な持時間を与えるのが当然の運営方法となっています。
その結果、度重なる離席という問題も発生する訳ですが、食事、間食やトイレ離席が必須となります。
チェス界ではゲーム中の飲食は言語道断ですが、疲れた頭脳への栄養補給として、離席する訳ではない間食も認めないのは疑問に感じます。

ただ、2日制対局の1日目最終時刻での封じ手という運営方法は欠陥だらけであり、チェス界で封じ手禁止となったのは当然と言えます。
他に適当な手段が無い為、囲碁、将棋では未だに封じ手が運用されている訳ですが、どうしても2日制で運用するならば、公平性担保の為に、もっと厳格な規則を設けるべきでしょう。複数の着手が考えられる複雑な場面で封じるべきであり、誰が見ても唯一の次手しか無いような場合に封じるのは著しく公平性を欠く事になります。

持時間の長期化に際しては、1日目最終時刻での封じ手だけでなく食事休憩時という問題も発生しますが、食事休憩に封じ手はありません。
こうして考えて見ると、長い持時間の運用については問題だらけであり、最善の運営方法を考案する事は極めて困難な状況です。
勿論、持時間無制限という訳には行きませんから、持時間を使い切れば1手1分以内という運営方法が採用されます。
しかし、チェス界では時間切れになれば優劣に無関係に着手側の敗北という極めて理不尽な規則となっています。

5番目は反則の扱いです。
囲碁、将棋では反則が発生すれば即時敗北ですが、チェス界では誤りを咎めて再開としています。あまりにも寛容過ぎると違和感を覚えますが、これも日本人と外国人の文化、慣習の相異でしょう。

最後に採譜という大問題について述べます。
囲碁、将棋では記録係が採譜、クロック処理を実施しますが、チェス界では対局者自身が採譜、クロック処理を実施する事が義務化されています。
脇見運転そのものであり、注意力散漫になるだけで何のメリットもありませんが、チェスでは絶対に記録係の存在を認めません。
日本チェス界に質問しても、「慣れてしまえば問題無い」とか「記録係が必要な理由が分からない」とか、全く誠意の無い回答ばかりで、数十年(笑)も悩み続け必死に考え続けた結果、独断ではありますが、やっと結論に辿り着きました。

先ず、チェス界では観客の観戦料が唯一最大の運営資金獲得源であり、公開対局が絶対です。その結果、観客の利益が最優先される為、記録係は観戦時の障害物、目障りな邪魔者でしか無いのであろうと推測しました。
更に、対局者の直近に存在すれば、記録係が言葉に出さなくても表情等で一方の対局者を援助、支援する危険性を除去したいと考えるのでしょう。
日本人ならば有り得ない発想ですが、こう考える事で無理矢理、自分を納得させる事にした次第です。

では、そろそろ結論に入りましょう。ここで象徴的な問題として2点だけ提起すれば充分と思います。
1番目はカラー柔道着です。カラー柔道着の導入により柔道の伝統精神は完全に破壊されてしまいました。
いくら柔道の伝統、心は白でしか表現出来ないと日本人が主張しても、外国語を全く話せず論破力も無いので、外国人の言いなりです。
2番目は朝青龍のガッツポーズです。横綱朝青龍が勝った瞬間にガッツポーズをして、伝統的な相撲界から非難された大事件です。
しかし、これも朝青龍には第一の責任は無く、きちんと弟子を指導しなかった親方に最大の責任があると思います。

観客の利益を第一に考えて、観客が競技者を見易くする、観客に勝利の喜びを伝える、という行為は外国人には当然なのです。いくら話し合っても理解出来るものではありません。
囲碁、将棋とチェスは全く別世界の文化であり、絶対に理解し合う事は不可能です。

 

 

公開対局はプロ棋士の芸術を破壊する

数多いボードゲームの中で、囲碁、将棋、チェスは他のゲームと異なり、極めて芸術性の高い性格を持っています。
マチュアならば運用形態は、どうでも構いませんが、プロ棋士の場合には最善の対局環境が必要です。
ここで大問題となるのが、プロ棋戦の運営資金、賞金などを如何にして確保するかと言う事です。

野球、サッカーのような標準的なスポーツならば、観客の入場料、テレビ中継料、広告料など様々な形態が有りますが、中核は観戦料金です。
選手に極めて近い場所に観客が存在して、応援または野次、更には、音楽、鳴り物などの手段で選手を鼓舞する事が、スポーツの醍醐味でもあります。

一方で、観客が存在しても静寂が要求されるものとして、芸術である演劇、映画鑑賞、クラシック音楽演奏会などがあります。
一部での拍手などを除いて、演劇や演奏の進行中には、観客は静寂を保つのが絶対のマナーであり、騒音は甚大な妨害行為となります。

しかし、観客の静寂義務の相異を除いて、スポーツでも芸術でも観客入場料金を主要な運営資金とする事は重要な共通点です。
また、野球、サッカーのように巨大な、すり鉢状の会場を設ける事で、大勢の観客にゲームの進行状況を明白に提示する事が出来ます。

以上の点を踏まえて、私が問題としたいのは、囲碁、将棋、チェスを公開対局で運用する事の是非です。

対局者の近辺に観客の存在を許す公開対局という運営方法は、一般のスポーツと同様に観戦料金を主要な資金源としたいという思考でしょうが、そもそもボードゲームの競技盤は観客から全く見えず、大型スクリーンに表示しなければ進行状況は全く分からないという大きな矛盾があります。

ゲームの進行状況をリアルタイムで観戦出来さえすれば、対局者の近辺に観客が存在する必要は全く有りません!!
ならば、対局者は観客がいない個室で対局して、盤面のみ大型スクリーンに表示した大型会場で観客が進行状況を観戦すれば良いのです。
更に、専門家がマイクで進行状況を詳細に解説する事も可能になります。アマチュアの技能向上の為の情報を提供する重要な機会となります。
ここで、囲碁、将棋の場合とチェスの場合で、運営資金の獲得方法には重大な相異が有る事を考慮しなければなりません。
 
囲碁、将棋の場合は、日本の巨大新聞社が戦後の新聞拡販手段の一部として、棋譜日本棋院日本将棋連盟から高額で買い取り、固定的、永続的な唯一のスポンサーとなる事で、囲碁界、将棋界のプロ運営が維持されて来たという現実があります。
勝負師であると同時に芸術家でもある囲碁、将棋のプロ棋士が、名局、名勝負を創造出来たのも、非公開対局を可能とする新聞社の巨大資金の御蔭でした。

ところが、チェスの場合には、そのような永続的巨大スポンサーが無く、観戦料金を主要な運営資金とするしか他に方策がありません。
高名なチェスプレイヤーは数世紀前から存在しますが、キャパブランカは外交官、エイベは数学者というように、立派な職業を持つインテリ達でした。
生活可能な巨額の賞金が提供される訳では無く、一流の棋力を持っていても、あくまで本職とは別の余技としてチェスを指していた訳です。
近代になって次第に数少ないスポンサーの御蔭で、チェスだけで生計を立てる事が可能な真のプロも出現して来ましたが、極めて少人数です。
つまり、野球、サッカーのような莫大な観戦料金が確保出来る訳では無くとも、公開対局で運営するしか無いのが現実です。

囲碁、将棋の良心的な理解者、ファンは、プロの囲碁、将棋を非公開対局で運営する事を充分に理解していますが、そのような慣習がチェス界には有りません。
非公開対局でチェスを運営しようとすれば運営資金が枯渇しますし、何よりもチェスファンの暴動、騒乱(?)が起きるかも知れません。(笑)

ここで思い出して頂きたいのは1972年のスパスキー対フィッシャーの世界チェス選手権です。
第2局でのテレビ中継カメラを発端としたトラブルが原因で、フィッシャーが個室対局を要求した為に、第3局から非公開対局でゲームが進行しました。
フィッシャーのようなカリスマ性の強い人物だったからこそ要求が受理された訳であり、チェス界の習慣から見て到底受理し難いものだったでしょう。

しかし、フィッシャーの要求に同意したスパスキーも実に立派だと思います。国家権力から強烈に支配されていたスパスキーの勇気には心から敬服します。
やる気を出したフィッシャーは能力を最大限発揮して、公開対局に戻した後も勝ちまくりタイトル獲得出来たのは周知の通りです。
チェス界では極めて稀な出来事でしたが、観客の存在を負担と感じるのは、超一流棋士に共通した心理だと思います。

勝敗を競うという点でスポーツ的側面を有しており、リアルタイムでゲームの進行状況を把握したいという大衆の要望は充分に理解出来ます。
しかし、ボードゲームの場合、対局者にとっては観客の存在そのものが重大な妨害行為です。これは、いくら強調しても強調し過ぎる事はありません!!

いくら観客に静寂を要求しても必ず発生する咳払い、どよめき等は重大なマナー違反であり、対局者の思考に対する甚大な妨害行為となります。
おそらく対局者の直近に居たいという観客の願望は、対局者の表情を見たいという極めて自分勝手な野次馬根性に起因するものでしょう。
画家、作曲家、作家などの創作現場に侵入して、作品の作成状況を覗き見したいという、下品な好奇心と同じ欲情とさえ言えます。

更に、公開対局には、もう一つの重大な問題があります。対局者の利益よりも観衆の利益を優先させる事になるからです。
その結果、持ち時間の短縮化が進む一方となります。観客の忍耐許容限界として、せいぜい4~5時間でゲームを終了させる必要があるからです。
一手当たり30分、1時間のような長考は許されず、「早く指せ」という野次が飛ぶ事を回避する負担を対局者に要求します。
最近のチェス界では単なる早指しの「RAPID CHESS」では飽き足らず、「BRITZ」(電撃チェス)という超早指しが脚光を浴びる始末です。
麻雀以上の猛烈なスピードで、僅か1~2分でゲーム終了です。こんなものに一体何の意味があるのでしょうか。芸術の堕落であり、嘆かわしい限りです。
「スリルが味わえる」などと言うふざけた賞賛があるようですが、レイティング上位者が悪手を指して敗退するのを嘲笑するような光景は極めて愚劣です。

最適な持ち時間を、どうすべきかは簡単に結論が出るものでは有りませんが、少なくとも早指しでは名局、絶妙手は生まれません。
カスパロフ自画自賛している、1999年のウェイカンゼーでの対トパロフ戦、「盤上の奇術師」と絶賛されたミハイル・タルの多くのサクリファイス等は高度な芸術作品として賞賛されるべきものです。「フィッシャーは偉大な芸術家であった」という賞賛を否定する人はいないでしょう。

ここでプロスポーツの定義を考えてみると、「①勝敗を争う。」、「②観客の入場料、観戦料を主要運営資金とする。」という2要素に集約されるでしょう。
その意味では、囲碁、将棋はスポーツではなく芸術であり、チェスは明確にスポーツであるという事になります。

しかし、インターネットの普及した現代においては、巨大新聞社でも販売部数の減少に苦しみ、高額の運営資金を提供する事が大きな負担になっています。
対局者近傍で観戦したいという大衆の欲望に抗し切れずに、迎合するような形で、公開対局を大前提として新たにスポンサーとなるという新興企業の提案を
日本棋院日本将棋連盟は受け入れるしか無い状況に追い込まれています。
多くの芸術運営組織、スポーツ運営組織に共通していますが、運営幹部には営業ノウハウ等のスキルが極めて希薄であり、運営資金確保が困難になっても、対応に右往左往するのが現実です。もともと、日本棋院日本将棋連盟は巨大新聞社に全面的依存して、営業努力、政治的ロビー活動をして来ませんでした。

その為、囲碁、将棋を職業として生活する事は、益々困難になっています。一部の超一流棋士を除いて殆どの棋士の収入は、一般サラリーマンよりも少なく、アマチュア指導等の副業が必須となる傾向が強まっています。このままでは、将来の希望、夢を持ってプロ棋士を目指す若者は皆無になるでしょう。
その点、チェス界の場合は、何もチェス賞金だけで生活する義務は無く、立派な本職を持った上で、あくまで余技としてチェスに参加すれば良いのですから、極端な話、チェスのプロ棋士がゼロになっても何の問題もありません。

要するに、現代の囲碁、将棋、チェスは、芸術性を放棄して、勝ちさえすれば中身はどうでも良いという傾向が増大する一方です。
理想を言えば、かつての共産圏のステートアマのように、国家が秀逸な芸術家、スポーツ選手に対する生活保障、高額賞金などを提供するべきです。
かつて、国家的戦略兵器として、ソ連人同士でチャンピオンを独占していた時代の善悪は別として、チェス棋士の生活は保障されていた訳です。
しかし、日本は文化的行政が極めて貧困な国家ですから、囲碁、将棋のプロ棋士に対する援助など実現するはずも有りません。

最後に強調しておきます。「見せろ見せろ」という愚かな大衆の欲求が囲碁、将棋、チェスの芸術性を破壊するのです。